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倉島が会社の黒歴史を思い出しながら書いてみました

社長コラム

倉島が会社の黒歴史を思い出しながら書いてみました
KURASHIMA

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ごあいさつ

あまり書くのが得意でない私も、自社メディアを自主的に立ち上げた社員達からの「社長コラム」要請から逃げるわけにはいきません。皆をがっかりさせないよう、何とか踏ん張ろうと思います。

私には、成功体験や斬新な発想、強い思いがそれほどありません。

でも、興味を持ってもらいたいサービス精神に火を点けて頭の中の乾いた雑巾絞ってみたら、出てきましたよネタが。というわけで、初回は簡単な自己紹介と時代に翻弄される我がA.C.O.の.歴史を紹介させてください。

ネットを言い訳に建築を辞める

東京芸大建築科をなんとか卒業したのが1997年のこと。オランダの大学院大学合格をキャンセルし、無謀にも才能ある友人と建築設計事務所を創業してしまいました。3DCGでレンダリングする完成予想図仕事で食いつなぎつつ、毎晩パーティに潜り込み引きつった顔で名刺をばらまいていました。

その傍ら、建築設計の営業目的でネット上にウェブマガジンを始めました。そのサイトが口コミで広がり、金無しデザイナーや暇な東大生達が呼んでないのに事務所に集合。自由に記事投稿をするようになりました。これがちょっと有名になり、Samsungの投資会社がこのメディアに投資してくれることに。

これを機にわたしは建築設計事務所を辞めます。

ハードの時代からソフトの時代への変化を予見したと言いたいところですが、要は建築設計で飯を食う自信がなかったのです。インターネットの世界が未開拓な大陸にみえたことはウソではありませんが。

A.C.O.初期はメディア運営でした

2001年、クリエーターの情報を集めて提供するメディアマガジンの運営会社が設立されます。これがA.C.O.の始まりです。この時わたしは創業社員として入社します。

当時28歳。住商出身のMBA社長や三菱商事OB社員、Samsung財務部隊といった人たちに囲まれ頑張ったものの、設立1年ちょっとで挫折。今思うと、美大予備校で絵を描き直前まで自称建築家だった私。大した覚悟もないままビジネスの戦場に立ち、正面から向き合えずにクリエーター風吹かしたまま参加したことで、実際はかなり足を引っ張っていたはずです。この件では申し訳ないことしたなと今でも思っています。

ただ収穫も有りました。編集企画ノウハウや取材ネットワーク、優秀なクリエーターとの交友やテレビ局や広告代理店との取組み、大手の商社や情報・通信企業との商談、飛び込み営業やチラシ配りなど、別世界のことをたくさん知ることができました。

と表向きには語れますが、実際には何にも結果が出ない自分が嫌で嫌で…布団かぶって泣いていました。中途半端なインテリプライドをゴミ箱に捨てることが、初期A.C.O.での本当の収穫だったのかもしれません。

しばらくしてA.C.O.は解散します。

(因みに、建築会社時代のパートナーは今話題の青い瓶の珈琲店を設計した人です。ウェブマガジンには、今世間を賑わせているグラフィックデザイナーや、だれでも知っている写真家、コンピュータサイエンス教授、有名雑誌の編集長など、当時は無名でしたが今となってはあり得ない人々によって作られていました。集まるとこには集まっていたのだなと最近気づいたところです。)

広告代理店との黒歴史

私はひとりになり、ほそぼそとフリーランスでEvianブランドサイトの受託仕事で食いつないでいました。しばらくしてSamsungからA.C.O.を譲渡され社長就任。焼き肉食べてマッコリ飲みながら流れで決まりました。

ここからが今のA.C.O.正式版の始まりです。それまではβ版です。

ジェイムズ(現取締役)と森(前取締役)と出会い、3人で制作受託会社スタート。私を除いて皆英語ペラペラ。この時のDNAが今の社内グローバル感覚につながっています。

徐々に広告系ウェブサイト仕事が大盛況に。当時テック感とエンタメ感のバランスが良い会社は、FLASHを使い次々と斬新なことをされていました。しかし私たちは「原理を発見し、企画考え、取材に行く」という感じが大好きだったので、もっと地味なコンテンツ制作や企業ブランディングの企画開発編集を広告代理店さんから受注していました。この頃最大のプロジェクトでは、トヨタの年間企業広告を大手広告代理店さんのもとで企画・デザイン・記事作成の全てを担当しました。そんなこんなで会社は一気に業績向上していきます。

一方で、人材ケアがメチャクチャでした。寝ないし管理しないしで、小さい会社なのに主力社員が一度に数人も辞められてしまう事件が起きます。さすがに自分を恨んでまた泣きました。あぁ恥ずかしい…。

広告代理店さんにも大変なご迷惑をおかけしたので、その後しばらく大きい仕事には呼ばれなくなってしまいました。

地下会議室
広告制作をメインにしていたころの巨大な地下会議室。パーティや長時間会議に使われていました

リストラ黒歴史

広告関連の仕事は減ったけど、まぁ仕方ないか…と言い聞かせ、次の可能性を見つけようと、東京ピストル他2社を誘って、現在会社のある町原ビルに移転し心機一転を図ります。(後に町原ビルは、Any Perkソウ・エクスペリエンスクロスフィールズWHILL仕事旅行社等が初期に入居していた出世ビルとして知られることに)

また町原ビル1階ではイベントスペース「ゴタンダソニック」の運営も始めました。prototype展(石巻工房の芦沢氏主催)や、Rhizomatiks, Tokyo Art Beat,greenz.jp,等がイベントやパフォーマンスを行うスペースとして使われていました。満尾(現取締役)も合流し、そこからしばらくは楽しくやっていました。業績も悪くなかったですし。

が…外注してたシステム会社の瑕疵責任を負い、その影響で創業メンバーだったTBS動画配信子会社の社外取締役も退任。更に追い打ちでリーマン・ショックの影響で仕事激減。五反田ソニック閉鎖に人員削減、報酬カット。リストラ策にも奔走しました。

全て自業自得です。でもあのタイミングで自分や会社の姿を鏡で見直し、歩き続けられている今を思うと、あのとき勇気ある判断をして本当によかったと思います。

五反田ソニック
ビル2階が執務室なので、1階で行われるイベントの音を聞きながら仕事をしていました

経済悪化で零細企業にチャンスあり

大きな社会問題や経済問題が次々起き不安でしたが、大手企業はこれ機に外注先や価格の見直し、グローバル化を加速させるというメスを次々と入れ、結果的にA.C.O.にとっては追い風となりました。

大きなキッカケは、突然トヨタ自動車のグローバル企業サイトのコンペ参加というチャンスが回ってきたことでしょう。神社に行ってお祓いしたおかげか、ナント勝利します。よくもあのリコール問題の最中に実績の少ない私達を選んでいただいたなと、今でもあの度量の大きさに頭が上がりません。

大きなトビラがゆっくり開いた

その後は大企業に飛び込み営業をかけ、徐々に大型コンペにダークホース枠でコンペ参加できるようになりました。競合は以前ご迷惑をお掛けした広告代理店さんや、二次請け仕事の元請大手ばかりです。ダークホースなA.C.O.は、ダメ元で本当に思ったことを多少要望を無視してでもぶつけていきます。その姿勢が新鮮だったのか、気持ちいいくらい連戦連勝していきます。

大きい会社の巨大なトビラがゆっくり開きはじめるのを感じました。ちょっと語りすぎましたね…。その後今に至るまでの数年は黒歴史ではなく、退屈かと思いますので省略します。

これからどうぞよろしくお願いします。

ACO MEMBERS

WRITER

kurashima

倉島 陽一

YOICHI KURASHIMA
代表取締役兼CEO/PRODUCER

東京芸術大学美術学部建築学科卒業。設計事務所を設立。代表取締役退任後、A.C.O.創業と同時に入社し、2002年同社代表取締役に就任。クリエイティブディレクション、マーケティング、コンサルティング担当。

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Writing 倉島陽一

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