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人類学者のUX研究コラム:ポストイットには危険性が潜んでいます

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人類学者のUX研究コラム:ポストイットには危険性が潜んでいます
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人類学者がUXリサーチに役立つ理由

みなさまはじめまして、比嘉夏子と申します。
私はもともと、海外で長期異文化フィールドワークを実施して人間の価値観や行動について研究してきた人類学者です。最近では人類学の研究で用いられてきた調査手法、いわゆる「エスノグラフィ(人間を経験的・包括的に理解するための記述と手法)」を用いた定性的なリサーチに従事する機会を、人類学研究以外の場でいただくようになりました。

そして現在は京都大学の研究員として在籍しながら、A.C.O.ではUXリサーチの開発をしています。

ところで。
地図で探しだすのにも苦労するような太平洋の小さな島に足を運んで現地語を学び、参与観察をしながら暮らしていた研究者が、なぜいまこうしてUXという全く異なる世界に携わっているのか。一見するとかけ離れた領域のあいだにも、じつは通底する思想や応用できる手法があるのです。そのような断片を、今回はお伝えできればと思います。

思考を創造的に拡散したいなら、ポストイットは向かない

突然ですが、あなたはポストイットを使った会議が好きですか?
好むと好まざるとに関わらず、もはやそれ無くしては成立しないという組織もあるのではないでしょうか。私の場合は、これまでが単独での調査研究が主だったため、実はそうした作業にさほど馴染みがありませんでした。ところが、最近になってビジネスの現場やデザイン関連のワークショップに参加してみると、必ずと言っていいほとポストイットはあちこちで頻繁に登場します。元々人類学者として「道具」や「方法」という視点から関心を持つ私は、カラフルなポストイットの束を積み上げた山をみながら、それについて考えるようになりました。

ポストイット

デザイン思考とその方法でも指摘されてきたように、ポストイットは大変便利なツールです。
特にチームでの作業になれば、情報の可視化と共有をうながし、生産性や効率を高めてくれることは確かです。けれども一方で、ポストイットを用いたワークに対してはどこかしら感じる違和感がありました。この違和感の所在はどこにあるのでしょうか。あの色合いが苦手なのか? あのサイズ感が嫌いなのか? などとあれこれ考えていました。
結果、問題はポストイットというツール自体にあるのではなく、その使われ方にあるのだと気づきはじめました。

結論から言ってしまいましょう。ポストイットのような道具は、私たちの思考を整理し、集められたデータを分類し、作業全体の流れを収束していく段階には効力を発揮します。しかし私たちの思考を創造的に拡散する段階や、膨大なデータにじっくり向き合うような段階においては、注意深く、むしろ限定的に利用する必要があるようです。

人々の言葉や行動の混沌とした記録の海に、きちんと溺れてみる

私がビジネスの現場やデザイン関連のワークショップに参加して色々な人たちと共同で分析作業をするようになってから、ふと気づいたことがあります。どうやら多くの人たちは、対象を「理解できない」「わからない」といった状態が苦手であり、時にそれを不快にすら感じてしまうようだと。そして一刻も早くその不快感から逃れようとする結果、分類や分析の作業を(無意識的にであれ)半ば強引に推し進めてしまおうとする力が働いてしまうのだと。
ワークショップに参加してみて、迅速だけれどもどこか安直に進められていく分析作業を眺めながら、私はぼんやりとそんなことを考えていました(こんなときにさえも思わず観察者になってしまう自分の悪い癖、職業病は自覚しています!)。

たしかに「早くわかりたい」という気持ち、言い換えれば「わからない状態から脱却したい」心情は理解できます。そのような心情は私にもあります。

例えば以前行った研究のため海外異文化フィールドワークを開始してしばらくの間は、日々が「わからなさ」の連続であり、いわばフラストレーションの多い辛い時間でした。わたしには「彼らの論理」が見えてこないために、なぜその場面でそのような行動を取るのかもわからず、次に何が起きるのかも予測できない。理由や根拠を直接聞いてみたところで納得のいく答えなど得られない。ひたすら参与し、観察し、小さな仮説や枠組みを頭のなかで作ってみては目の前の現実に脆くも打ち砕かれる、そんなことの繰り返しでした。

ヤシの葉でカゴを編む経験も〈調査〉の一部(トンガタプ島の村にて)
ヤシの葉でカゴを編む経験も〈調査〉の一部(トンガタプ島の村にて)

しかし真に対象を理解しようと努めるのであれば、つまり「分析者=私中心」から脱却して「人間中心」のデザインを目指すのであれば、対象のわからなさと向き合うことは、絶対不可欠なプロセスです。人びとの言葉や行動の記録から得られた、混沌としたデータの海のなかに一旦きちんと溺れる、他者の経験や感覚に触れ、そこに可能な限り丁寧に寄り添ってみること。こうした地道な過程を経ずして、真に「人間中心」のサービスやプロダクトができるとは言えません。

「データを分析する」というとまるで知的でスマートな作業をしているかのように思われるかもしれませんが、人間というものを特に定性的に、全体的に扱う限りにおいて、実のところそれは限りなく素朴で身体的で、時として自分の感覚や価値観さえ揺さぶられるような、かなりタフな作業なのです。

それは客観的でクールなデータの分析とは程遠い、全身全霊で行う他者との対話なのです。

「わからなさ」を手放さなければ、わかる瞬間がやってくる

ポストイットのような便利な道具が私たちに与えてくれる快楽や、膨大な記録を断片化し分類し統合し再構成するというという明確な作業プロセスのなかには、分析者自身にとってうまく理解できない部分や言語化しづらい部分を速やかに手放し、都合良くわかりやすい部分のみを恣意的に残していく、そんな危険性が常に潜んでいます。

それは「バイアスに気をつける」といった表現などではくみ尽くせない大きなリスクだと言えます。こうしたリスクを自覚することなく盲目的に行われる分析の結果やそこから得られる洞察がどのようなものになるかは…もはやいうまでもないでしょう。

「わからなさ」を即座に手放さないこと。一定の時間をかけてそれらに対峙すること。

そのようにして向き合った「わからなさ」は、やがて他の知見と重なりあい別の形を取ることで、あるいは分析者である私たちのものの見方が変容していくことで、もしかすると数週間後に、あるいは数ヶ月後にふと「わかる」瞬間へと変わるかもしれません。またたとえそれが永遠にわからないままなのだとしても、その状態を無かったことにするのではなく、きちんと向き合っておくことが重要なのだと思います。「わからなさ」は我慢の時間です。(こうした私の態度と作業のしかたを見た友人には「禁欲的!」と評されました・・・)

UX研究コラム、引き続き連載します

まったく違う価値観や違う論理で生きている他者について、うまく理解できず説明できないような現象に対して、私たちはどう向き合っていけばいいのでしょうか?  そのとき私たちはつい、既存の価値観や、自分にとってわかりやすく齟齬のない枠組みに当てはめようとしがちです。異なる考え方、感じ方、経験を理解し組み込んでいくプロセスは、どうすれば実現するのでしょうか。それはどのような形でUXに貢献するのでしょうか。

これからも引き続き、考えていきたいと思います。

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WRITER

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比嘉 夏子

NATSUKO HIGA
ANTHROPOLOGIST/ ETHNOGRAPHER

京都大学大学院人間・環境学研究科 研究員。人類学者/エスノグラファー。オセアニア島嶼をフィールドとして人間の行動や価値観を研究してきた傍らで、広くデザインやリサーチなどの業界にも関わりつつ、人間理解を深める手法を探究中。博士(人間・環境学)。

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